論文・主張- Opinions -
岡崎 勝彦 さん
「定住外と地方参政権 ―戦略的人権擁護運動論に即して」
- <プロフィール>
- 岡崎 勝彦さん:
- 愛知学院大法科大学院教授、主な編著書に『現代行政法入門』(法律文化社)
- 『外国人の公務員就任権』(地方自治総合研究所)など。
一、冷戦下構造と法的地位
戦前―前史
(一)一九一〇年の日韓「併合」以来、朝鮮人は「外地人」として日本国籍を有する帝国臣民となったものの、一方で、それは「内地人」と同様に国籍法および戸籍法の適用を受けることなく、戸籍については、別途朝鮮戸籍令の適用を受けた。当時、国法上、ここでいう外地人と内地人との区別標識は、外地人とは、一般国人のうち外地に本籍をもちまたはもつべき者をいい、これに対して、内地人とは、一般国人のうち内地に本籍をもちまたはもつべき者とされた。また本籍とは、身分上の本拠のことであり、したがって、戸籍によって身分上の所属を示す本籍である戸籍が示されることになる。ちなみに皇統譜(大統譜および皇族譜)によって皇籍が示された[1]。
(二)内地にいる外地人としての朝鮮人は、日本国臣民である以上、公権である選挙権、被選挙権、公職につく権利をもっていた。とりわけ、一九二五年の普通選挙法の実施以後「帝国臣民たる男子にして、年齢二五年以上のもの」のうち、在内地朝鮮人の票数が少なからぬ影響をもつことになった。一九三二年と三七年の総選挙においては、東京第四区から本所深川を地盤にした朴春琴(在内地朝鮮人社会事業団体である相愛会副会長)が衆議院に出馬し当選している。なお、当時公職についていた者は、終戦の前年において官公吏四一〇名であった。
(三)一方、外地の植民地には、一九回にもわたる要求が出されていたにもかかわらず、選挙区を設けず、参政権を認めなかった。ようやく終戦直前になされた処遇改善策の一環として、貴族院令の改正により一九四五年四月一日に貴族院議員七名が在朝住民から選ばれている。また衆議院にかんしても、同年四月の衆議院選挙法の改正により、直接国税一五円以上の納付者に限るという制限つき選挙のもとで、「各道から一〇〇万名に一名の割で、二三名が選ばれる」ことが予定されていたものの、敗戦のためついに行われることはなかった[2]。
冷戦下構造
(一)日本の敗戦によって解放された強制連行による者等を含め二三〇万人の在日朝鮮人のうち、早くも一九四六年三月までには一五〇万人の人々が帰国した。その後、なおも、帰国希望を持ちながらも、朝鮮情勢および、かの地での生活基盤等の事情から六〇万余の人々が残留した。これら在留朝鮮人の国籍の所在について、日本の占領に当たった連合国最高司令部(GHQ)の見解は、当初、次のとおりであった。「総司令部の引揚計画にもとづいて本国に帰還することを拒絶するものは、正当に設置された朝鮮政府がかれらに対して朝鮮国民として承認するまで、その日本国籍を保持しているものとみなされる」(一九四六年一一月一二日「朝鮮人の地位及び取扱いに関する総司令部渉外局」および「民間情報局」発表)との指令を発し[3]、法的には「同化」を試みたのである。
しかし、この発表に対し、終戦直後の解放民族としての「意気軒昂たる朝鮮人側に猛烈な反対」が起こった[4]。そこで、八日後、GHQ渉外局は「占領官憲は、市民権の保持、放棄又は選択に関するいかなる国籍のいかなる者の基本的権利にもどのようにも干渉する意図を有しない」という釈明を行わざるをえなかった[5]。GHQとしては、「むしろ当時の段階で国籍問題を明確にせぬことが実際に即したものと考え」るようになっていた[6]。アメリカの南朝鮮軍政庁にも勤務したことのあるワグナーをして「これは余りにも非現実的な政策であった。朝鮮人は、進んでその国籍を捨てようとはしないし、また、日本もかれらを一人前の日本人として受け入れようとしない」と言わしめたものである[7]。
その後、五〇年六月のGHQ外資委員会の覚書は、その国籍について明確に断言するに至っている。すなわち、一九四五年九月二日以降、「ひきつづいて日本に居住する朝鮮人は、日本国籍を保持する」ものであって、「(選挙権および公職につく権利をのぞいて)実質的には日本国民であるが、あわせて朝鮮籍を取得する権利をももって」おり、「国籍の最終決定は、平和会議およびそれに従属する日本と朝鮮間の条約にかかっている」というものであった[8]。
(二)日本政府もまた、一九四九年に至り、「解放民族の法的地位の確定(国籍)は講和条約の発効をもって確定する」ものとの一般論にもとづき、在日朝鮮人についても、「依然日本国籍を有するものと解すべき」(同年一月二六日法務府民事局長)[9]、あるいは、「講和条約の締結までは、特別の定がある場合を除いて、従前通り日本国籍を有するものとして取り扱う外はない」(同年四月二八日最高裁事務総局)[10]、また「朝鮮人の国籍は、講和会議において正式に決定されるものであり、現在は未確定の状態にある」(同二八日「法務調査意見長官の参議院法制局長あて回答」『昭和二四年度法務総裁意見年報』)と明言するようになったものの、その具体的処遇にいたっては、政府にとっての便宜主義そのものであった。すなわち、ある場合は外国人(選挙権・被選挙権停止、外国人登録、強制送還)とみなすことにより、日本人としての特権を奪い、ある場合は、日本人(納税義務、食料配給、刑事裁判権、就学義務)とすることにより、外国人として保障されるべき権利や利益を奪うという、二重の不利な地位に置くものであった。
(三)たとえば、一九四五年の衆議院選挙法(昭和二〇年一二月一七日法律四二号)をはじめ、参議院選挙法、地方自治法および公職選挙法において、いずれもその附則において「戸籍法の適用を受けないものの選挙権及び被選挙権は、当分の間、停止する」ものと定めることにより、国政や地方における選挙権等を剥奪した。
そのことにより、憲法はもちろん、みずからに関係する①外国人登録法をはじめとする、②父系「血統主義」を原則とする一九五〇年五月の国籍法等の各種「入管法制」の制定に際し、直接に参加することは許されなかったのである。日本の国籍法がアメリカの「属地主義」と異なり、父系「血統主義」を原則とすることは、母系血統、領域内出生による国籍取得を例外とするものであり、日本人を父親にもたないかぎり、原則的に日本国籍を取得できず、講和後も在日朝鮮人等の日本国籍を排除するものであった。
外国人登録法もまた、周知のとおり、四七年五月のポツダム勅令のひとつとして、日本国籍を保有する在日朝鮮人をして早くも「当分の間これを外国人とみな」し(同令一一条)、不法入国に対する退去強制条項をも採用した外国人登録令が講和に際し失効するところから生まれた。その登録手続を受けつぎ、新たに「国家による個人情報の管理」を目的とする指紋押捺制度(実施は五五年以降)を採用し、五二年四月二八日公布、即日施行されたのである。③一九五一年一〇月の出入国管理令(入管令)は、そもそも旅券の必要もなくそれ以前から在留している在日朝鮮人等に対して、適用しえないはずのものであった。それゆえ、政府はまず平和条約発効(五二年四月二八日)直前の四月一九日、急遽、在日朝鮮人等旧植民地出身者の国籍問題の解決策として「内地に居住している者を含めすべて日本国籍を喪失」するものとし、その国籍取得に際しては、「一般外国人と同様、もっぱら国籍法の規定による帰化手続による」旨通知した。
まさに、④一片の法務庁民事局長通達(民事甲四三八号)により、彼らをして一方的に「外国人」一般とすることによって、国籍選択における選択権の付与という国際慣習に反してまで、この状況の打開を図るものであった。こうして、かの平和条約において、国籍選択条項が設けられることはなかった。これ以降、在日朝鮮人の人権保障にかかわって、ことごとく国籍問題がその「障壁」となってきたことは、今日もなお変わるところではない。
次に、政府が行った入管令が求める「在留資格」および「在留期間」とこの「在日朝鮮人」との調整作業は、⑤ 同年四月二八日「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基づく外務省関係諸命令の措置に関する法律」(以下、法一二六)を定めることであった。すなわち、「別に法律で定めるところにより、その者の在留資格および在留期間が決定されるまでの間、引き続き在留資格を有することなく、本邦に在留することができる」(同法二条六項)ものとし、条約発効時に「外国人」となった在日朝鮮人に対して、同入管令の適用を可能にし、暫定的に「永住権」を付与するということになった。なお、同法の該当者を「法律一二六該当者」といい、その子で五二年四月二九日以降に生まれた者については、在留期間三年の「特定在留者」とされ、その孫にいたっては、在留期間三年以内の「特別在留者」とされる。このように、代を重ねるごとにその定着度を増すのに反し、その身分関係はますます不安定となる世代系列=「法律一二六系列」が発生することになったのである。
(四)こうして、極東アジアにおける冷戦構造の「落し子」とされた在日朝鮮人の法的地位を規定するものは、当時、日米共同合作による講和をめぐる「特異な時代の特殊な政治的状況下」に形成された反共性に動機づけられた治安対象として、徹底した情報管理のもとでの「追放と同化」政策による管理にあったといえよう[11]。しかし、この間にも参政権回復の要求は存在した。以下その特徴をみておくことにする。ただし、その当時の事情にかんし、資料自体の散逸も含め、今のところ「点と点」を結ぶ作業とならざるをえない。
二、韓朝鮮人の参政権要求
(一)平和条約発効までの間、在日韓国・朝鮮人は、なおも日本国民としての国籍を保有するものとみなされていたにもかかわらず、戸籍法の適用を受けない者の選挙権、被選挙権は、当分の間、停止し、選挙人名簿に登録することができないものとされた。その後、平和条約の発効をもって一方的に外国人となり、選挙権を喪失した。要求の流れは次のとおりである。
(二)いち早く、日本政府は一九四五年一二月一七日、衆議院選挙法の改正を行い、在日朝鮮人の選挙権、被選挙権を停止した。同年一〇月に結成総会を終えていた在日民族団体・在日本朝鮮人連盟(朝連)もまた、当初より「在日朝鮮人は外国人であるけれども市民権を与えるべき」ものとし、そして「日本での政治に発言権をもつために選挙権、被選挙権を要求」した。[12]
すなわち、同年一二月二五日、朝鮮民主主義人民共和国支持大阪地方大会では、日本の総選挙参加を要求、次いで朝連の機関紙『民衆新聞』(第九号)は、要旨次のようにいう。
「日本政府が本当の民主主義国家であれば、当然日本国内に在住する人民に選挙権、被選挙権を付与しなければならない。百数十万の人口をもつわれわれに、当然に与えなければならない。われわれは解放された自主独立の外国人の立場を堅持しながら、生活の根拠を日本にもつ外国市民の立場として自分自身の生活を守り、三六年間受けてきた迫害と虐待に対する報復のために、また侵略的日本軍国主義天皇制を打倒するために総選挙に参加する。われわれは、自己の生命、財産、人権を擁護するために選挙権を通して真実の日本の民主主義政治を樹立するために積極的に努力しなければならない。」[13]
それは国政レベルにおいて、明確に外国人の立場から市民的権利の実現を図ろうとするものであったといえよう。当時、朝連は、日本共産党の指導のもとに、日本の民主革命をめざしてその「前衛的実力行動部隊」として最も果敢に闘った部隊とされる。日本共産党もまた、一九四六年八月、いわゆる「八月方針」において、「(4)朝連は、日本の人民民主革命をめざす共同闘争の一環として、その民族的な闘争方向を打出すことが必要で、その方が朝鮮人自体のためにも有利であ」り、したがって、「(5)朝連は、あくまでも日本の人民民主主義戦線の一翼を担当する役割をはたすように、つとめることを要する」という方針を掲げた[14]。この方針の背景には、党自身が在日朝鮮人を日本国内の「少数民族」とする観点があったとされている[15]。そして、ここから当然のこととして、その後指令七一号において、「(9)朝鮮人の選挙権、被選挙権獲得のためにおいて闘うべきであり党自身これに対して積極的に援助しなくてはならない」ものとし、注目すべきは、当時の在日朝鮮人とGHQ・日本政府間との国籍の存否についての争いをふまえて、「国籍如何を問わず選挙権、被選挙権を与えろ!」というスローガンを提起した(「朝鮮人問題における活動方針」一九四七年三月一九日)[16]ことである。
朝連は、それらを受け、在日朝鮮人の選挙権、被選挙権の要求を掲げた。『民衆新聞』改め『解放新聞』は、同年三月一五日付社説「選挙権、被選挙権を要求する理由」で、「われわれが選挙権、被選挙権を要求するのは、日本国民になろうとするものでもなく、親日派・民族反逆者の標本である朴春琴と同じように代議士になろうとするものでもない。ただわれわれは、われわれの利益と権利を擁護する手段としての日本政治機構に発言権をもとうというのである。これこそ、われわれの権利を正当に保障することができる道であり、また日本の民主化を促進する一助となるのである」とし、権利擁護の手段であることを全面に打ち出している[17]。朝連は、その後同年五月の第一〇回中央委員会の活動報告では、この選挙権、被選挙権問題について、「しかし・・・・・・直接活動としては啓蒙宣伝と地方選挙の権利を要求しているに過ぎない」とし、その要求をトーン・ダウンさせている。[18]
(三)一方、朝連とは立場を異にする在日本大韓民国居留民団は、その要求を民族的反逆行為と決めつけ、「外国日本の内政に関与する、選挙権並びに被選挙権獲得のための運動は、自らが日本人化する希望を表明するもので、『朝連』の日常愛用する親日派的行為により更に一歩前進するものであろう」(『民団新聞』第三号一九四七年三月二〇日)と批判した[19]。あるいは、朝鮮建国促進青年同盟もまた、「世界の歴史を通じて、その国の国籍を有しない者が、この国の選挙権・被選挙権を行使することは決してないのである」とし、自分たちが要求するのは、「外国人として準連合国人の待遇を受けること」にあるとした(『民団新聞』同前)。[20]
(四)一九四八年一月一三日、朝連中央書記局は生活権を主とする在日朝鮮人の市民権問題について新しい見解を発表した。要旨は次のとおりである。
「朝鮮に民主政府がまだ樹立していない過渡期において、日本に在留する同胞はいうまでもなく日本人ではないが、市民権すなわち国籍という前提の市民権獲得運動は絶対許されない。しかし市民権と国籍を別にして問題を立てることは現在の国籍の解釈や、法理論では成立しないので、われわれの主張はすなわち住民としての基本的権利である生活権を絶対主張しなければならない。」
市民権は生存権(居住、事業、統制経済による被配給権、社会保障その他)と参政権に分けて考えられる。参政権を包含するのが市民権であるが、われわれは現段階では日本国籍をもつことができないため参政権を主張できない。それ故、生活権獲得運動がわれわれの権利獲得運動であり、この権利を主張するとともに義務の履行につとめなければならない。在留朝鮮人は外国人として日本に居住する権利がある。従って、生活のために諸般の活動が保障されなければならない」(『解放新聞』一九四八年一月一五日)ものとする。[21]
この書記局見解は、この時期には数少ない法的に論理構成を加えるものであった。一般に、当時の理解では、市民権(citizenship)と国籍(nationality)とは同義と考えてよく、これらに参政権が対応させられている。それがあってか、在留している同胞は、「日本人でない」という認識のもとに、当時の運動の論理から国籍を前提とする参政権を包含する「市民権獲得運動は絶対に許され」ず、市民権の中でも生存権(生活権)という普遍的権利についてのみ要求するというのである。国家と参政権とは一体であるという当時の伝統的な権利構成にみずからもしばられることになった。したがって、その後の要求課題も、政治スローガン化するかあるいは地方選挙権の獲得を求めるというものであった。[22]
一九四八年三月一九日、なおも朝連中央本部は選挙権獲得の必要性を次のように訴えた。それは、(1)生活難の根本的打開、(2)祖国朝鮮の民主完全独立と存在発展、(3)祖国同胞と呼応、(4)外国人であっても日本人と同一の義務を守る限り、当然に人権と生活権と利益を代表する政治的権利の保障、以上のために選挙権を必要とするというものであった(『解放新聞』一九四八年四月一日、同社説一九四八年一一月六日参照)。[23]
三、参政権の是認と否定
(一)朝鮮半島にあっては、旧日本帝国の暫定的軍事分界線でしかなかった三八度線は、実質的に朝鮮半島の分断を固定する分断線となり、東西冷戦における最前線となるに至っていた。一九四八年八月、大韓民国が成立し、同年九月、朝鮮民主主義人民共和国が成立を宣言、そして五〇年六月、朝鮮戦争が勃発(五三年七月休戦)したのである。
朝鮮戦争の開始と同時に、GHQおよび日本の治安当局は、在日韓国・朝鮮人を以前にもまして「反共治安問題」の対象とみなすようになった。というのも米・ソを中心とする国際冷戦構造が、日本国内にあっては体制(保守勢力)・反体制(共産党等)による国内冷戦として政治化し、他方で、在日の朝鮮民族内部にあっても、それが民団・総連として継続、拡大されて、不幸な「民族内冷戦」として政治化することになった。
(二)このように、内外ともに緊迫した時代的状況の中、四九年九月、朝連は解散を命じられたが、まだなお共産党中央委員の追放にまで及んでいない四九年一一月二二日、第六回衆議院予算委員会において、在日韓国・朝鮮人にかんする選挙権問題が共産党・風早八十二議員によって朝連の解散とからめて取りあげられている。
風早議員「選挙権につきましては法務総裁は朝鮮人に選挙権があると思っておったというお話だった。・・・・・・朝鮮人に今後選挙権を與えるつもりがあるかどうか。納税の義務は課しておきながら、選挙権は與えない。そういう点について選挙権を現在及び将来與える考えがあるかどうか伺っておきたい。
樋貝詮三国務大臣「朝鮮人なるがゆえに差別待遇していることは全然ありません。・・・・・・選挙権の問題につきましては、私の管轄ではないかもしれませんが、それを適当と考える時期になれば、選挙権をいかなる国民でも與える必要があるならば、與えて参りたいと考えております」(一九四九年一一月二二日『衆議院予算委員会議録』第七号)。
この大臣答弁の直後、全国の地方紙への配信記事として、「第三国人も将来選挙権」という見出しのもと、「朝鮮人の選挙権については適当な時期がくれば朝鮮人のみならずいかなる第三国人にでも選挙権を付与するつもりである」(『島根新聞』一九四九年一一月二四日)と大臣が述べたことになっている。新聞記事のいうとおりであれば、当時なお日本国籍を保有するこれらの人々に対して、衆議院選挙法等の附則における「戸籍法の適用」条項を撤廃することになる。あるいは、日本国籍の保有という事実自体を認めたくないこれらの人々に対して、国籍と切れたところでの選挙権の設定ということになる。当時、来るべき平和条約の発効時における国籍選択についても、衆議院外務委員会において川村松助外務政務次官が国籍については「だいたい本人の希望次第決定されることになるという見通しを持っている」(一九四九年一二月二一日、『衆議院外務委員会議録』第一号)との答弁をしているといった諸事情からすれば[24]、当時、現実性はともかく、講和条約発効時に日本国籍を選択することによって少数民族となった「国民」に対して、選挙権をも設定するという図式が存在していたということは、少なくともいいうるであろう。
しかしながら、少数民族の発生をきらった日本政府は、前述のとおり一切の選択権を与えず、かの「通達」により、すべて日本国籍を喪失せしめることによって、戦争責任にもとづく人権保障よりも、治安立法としての「入管法制」の確立という選択肢を優先することになったのである。これはまた、冷戦構造下における日米の合作によるものであった。
(三)要するに、この期の参政権問題は、一方でこの日本を「いつか祖国へ帰る」仮りの宿とみた在日一世を中心に、解放民族としての外国人と自己規定する在日韓国・朝鮮人と、他方で日本国籍を押しつけながらも選挙権等を当分の間停止せしめるという日米両国との国籍の所在をめぐる双方の「ずれ」を残したまま、議論がかみ合うことなく政治的スローガン化したことは否めない事実であろう。また、日本政府の論理に即して「当分の間」条項の撤廃を求めることは、在日韓国・朝鮮人が認めるところではなかったであろう。したがって、この参政権問題は、基本的には、在日韓国・朝鮮人側の関心を引くに至らず、実践的な課題にはならなかったといえよう。そして、この問題は、組織的には、在日朝鮮人運動の転換(みずからを「在外公民」として位置づける)にともなう一九五五年の「朝鮮総連」(在日本朝鮮人総連合会)の結成によって、一応、参政権要求を否定することになったのである。その後、民団、総連などの各民族団体が日本での市民的権利取得を等閑視し、参政権問題も一種のタブーとなってしまった。
しかしながら、「少数民族」としての在日朝鮮人に対する当時のこれら参政権要求は、居住国での生存権(生活権)を基盤とする市民的権利要求の一環として位置づけられるかぎり、「一人一票の民主主義思想の基本からいっても、その当時先進的な意味を持つもの」であったといえなくもない[25]。そして、参政権を市民的権利要求の一環としてとらえることは、次期においても有力に主張される論理であった。
四、脱冷戦下構造と法的地位
(一)講和条約の発効を契機に、反共性に動機づけられた治安立法としての「入管法制」は、当初より在日韓国・朝鮮人をその在留原因や在留実態を捨象し、抽象的な外国人一般として位置づけた。しかも、法的には権利救済を放棄し、政治的には情報管理のもとでの同化と追放政策を断行するというシステムこそ日本の外国人法制の特色をなすものであった。しかし、その後、世代の交代をふまえつつ、今日に至るまで、定住外国人としての在日韓国・朝鮮人を中心に、より安定した生活条件の確保のために確固とした永住権の設定をはじめ、より生活実態に即した諸要求をもって、硬直した入管法制の改変をめぐる「せめぎあい」が、外圧も加わって行われ続けている状況にある。なお、「法一二六」で予告された「別の法律」は、その間いっこうに制定されず「法一二六該当者」の子が徐々に増えていった。
(二)そこでまず、一九六五年、一四年間の交渉を経て「日韓条約」が締結された[26]。その具体化として「出入国管理特別法」が制定され、退去強制における「優遇」措置をふくめ、申請にもとづき羈束的に永住権が付与される「協定永住」者制度を創設した。この協定永住者の子は、その後も出生によって協定永住が取得できることになっており、したがって、協定永住は「法一二六」を母体として生まれた分身とされるものである。これが「韓国籍」を保有する者のみに限るものであることからすれば、在日韓朝鮮民族内に差別と分断を積極的に持ち込むものであったことを看過してはならない。
しかし、なおもその後の民族教育の否定、あるいはたび重なる(四度)政治活動の規制を目的とする「入管法」等の提起、指紋押捺をはじめとする「協定永住」の形骸化、社会保障等、生活権にかかわる側面での民族差別は解消されることはなかった。
それにもかかわらず、七〇年代「外国人問題」をめぐる内外からの状況は、政府および関係諸団体に対して、従前とは異なる対応を迫るものであった。その契機となったのは、まず国内にあっては、日立製作所就職差別事件(七〇年)をきっかけとする民族差別を撤廃する諸運動、次いで外からのインドシナ政変(七五年)による難民問題等への対処があげられる。
(三)次に、七九年の国際人権規約への加入による「内国民待遇」、ついで八二年の難民条約への加入による「内国民待遇」条項は、日本の定住外国人に対する人権対策に一定のインパクトを与えるものであった。なかでも、後者による是正措置はより拘束的なものとされ、同年の出入国管理令の大幅改正による「出入国管理及び難民認定法」(以下、新入管法)の制定、児童手当三法および国民年金法からの国籍条項の撤廃がもたらされた。
改正による新入管法は「一般永住権」取得手続の特別措置として、申請にもとづき同永住権を前述の一二六号系列のうち、八七年一月一日以降出生した一二六号該当者の孫以下の子孫を除いて、外国人一般としての一般永住化を図ったものである。それを略して「特例永住」という。八五年一月には、国籍法が改正され、父母両系血統主義が適用されることになった。また、経過措置として、改正後三年間に限って、日本人の母親から生まれた二〇歳未満の子は「届出」によって日本国籍が取得できるものとした。
(四)九〇年五月の盧韓国大統領の訪日にあたって、在日韓国人の法的地位の改善がテーマのひとつとなった。また、九一年一月の海部総理(当時)の訪韓に際し、平和条約関連国籍離脱者等に係る特例法の早期成立を図るとともに、外国人登録証の「携帯制度」等の各条項について是正措置を図るべく、両国外相の間で「日韓覚書」が交換された。
まず、九一年一一月施行の「日本国との平和条約に基づき日本国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法」(以下、入管特例法)によれば、従来、在日韓朝鮮人の各永住資格にかかわって、それぞれ「法一二六該当者」「協定永住者」「特例永住者」および今回新たに「平和条約関連国籍離脱者の子」とされ、あるいはされていた者が、今回、やっと一本化された在留資格として、三世以降に対しても「特別永住者」と規定されることになったのである。これによって、旧植民地出身者およびその子孫という、同じ歴史を背景にもつものたちが、冷戦構造の「落とし子」として、政府のその時々の政策に翻弄され、あるいは同一家族内にあっても世代によって別々であったが、ようやく単一の永住資格を保有することになったのである。
次に、八〇年代をつうじて大きな社会問題、政治問題となった指紋押捺制度にかかわって、同覚書にもとづき在日韓国・朝鮮人等に対する指紋押捺廃止のための改正外国人登録法が九三年一月に施行された。新法では、「永住者」(「特別永住」と一般永住)については指紋押捺が廃止され、その代替手段として、写真や署名のほか、家族関係を登録する方式に変わった。なおも押捺制度自体は維持され、登録証の常時携帯義務等も存続することになっている。
このような改正新法の制定を促進せしめた要因については確認しておく必要がある。第一に、「指紋」の強制が「人間の尊厳」にふれることとして広範な抵抗を呼び、かつ多くの世論の支持を得ることにより双方の共同・連帯が成立していったことである。しかしそれはなおも「抵抗」であった。第二に、東西冷戦構造の解体が在日韓朝鮮人を反共治安対策の直接の対象からはずす契機を与えたことである。すなわち、反共に動機づけられた治安立法としての「入管法」の変質が時代の流れとなってきたものといえよう。
在日韓朝鮮人の権利擁護運動にとって、ここにいたって求められるべきは、生活者としての市民的権利の拡張のための「核」となるべき明確な課題を設定することにある。
五、韓朝鮮人の地方参政権要求
(一)在日韓朝鮮人の間から、この参政権要求運動が再燃するのは、一九七〇年代半ばのことである。しかもそれはこの国に定住する住民としての生活要求を実現するための各種の市民的権利要求の一環として主張されてきているところに特徴がある。
すでにみてきたように、かつてのそれの特徴は、まだ日本国籍を保有しているという客観的な条件下にあることを前提として、第一に、厳しい東西の冷戦構造下にあって、それぞれの国内冷戦および在日の民族内冷戦の直接の担い手たちをその要求運動の主体としてきたことにある。それだけに、横への拡がりにとぼしく、政治的・民族的少数者にとどまるものであった。第二に、したがって、その要求目的も主として、日本の民主化要求運動と直結したところでの、みずからの利益と権利を擁護するための政治参加の手段として位置づけられていた。第三に、以上の事情からその要求内容も明確に焦点が定まらず、政治参加の手段として、あるいは生活権要求の一環として選挙権・被選挙権の要求を提起するものの、最終的には「政治スローガン」一般に解消するものであった。
(二)この七〇年代半ばは、在日韓朝鮮人内での人口動態において、すでにその三分の二以上が日本生まれの二世、三世によって占められるようになったのである。この新しい世代の多くは、「皮肉なことに」、戦後の人権教育をまともに受け、民族差別を不条理として告発する人権感覚と、すでに日本国民と連帯する主体的条件とをあわせ持つようになっていた。そして彼らは、日本人との「共生」をめざしながら外国人として生きられる法制度の担保を求め、現代まで引き継がれている各種の行政差別や国籍条項の撤廃運動に取り組み、具体的成果を挙げるにいたってきているのである。その成果は、前述したところでも、「同化・追放」を目的とする「入管法制」における単一の永住権整備、「指紋押捺」問題、国籍における父母両系血統主義の採用等においても、十分とはいえないまでも検証されてきたところである。
(三)ここでいう参政権要求運動の特徴は、旧日本国籍を「喪失」した外国人であるという客観的条件下にあることを前提として、第一に、この要求もまた、そのような世代によって広く担われているということである。地方参政権を求める訴えもまた各地で提起されているところである。[27]
第二に、この参政権要求運動の目的は、まず、在日韓国・朝鮮人の人権の保障や身分の安定のため、「住民」としての「基本的地位」の確立にあるという[28]。次に、参政権を得ることの目的は、選挙での投票や立候補にとどまらず、選挙権資格を要件とする民生委員、教育委員、人権擁護委員などへの就任、また自治体への条例制定、改廃、監査請求、リコールなどの住民の直接請求権を持つことを目的とするものである[29]。すなわち、ここでいう参政権要求の目的とは、在日韓国・朝鮮人が住民として、当該地域を構成する能動的構成員としての地位を確立する手段を求めることにある。そしてそれを具体化する権利として選挙権・被選挙権が求められることになるのである。
第三に、選挙権の内容は、地方自治体の参政権に限定している。それというのも、国家の枠組みにかんすること、つまり「国家の形態とその運営については国民固有のものであるとしても、その範囲内で地域の実情にそくして社会生活をよりよくしようとする地方レベルでの参政権は、人権という観点のみならず、健全な社会をつくるためにも欠かせない」という[30]。そして、国政と地方行政との関係についても、「地方自治体は国家の枠内で存在するのであるから、その制約を受けており、外国人が参与したからといって何ら不都合が生じることはない。憲法第一五条が国民主権原理から出ているとすれば、第九三条は地方自治の原則から理解すべき」というのである[31]。なるほど、現行憲法構造からいっても説得的である。
以上、今日の参政権要求は、その主体のひろがり、要求目的の説得性、要求内容の具体性からいって、前期におけるそれとはいちじるしく異なるものといえよう。したがって、次にその課題とされるべきは、韓朝鮮人による権利擁護運動におけるそれの戦略的位置づけを明確にすることである。
六、戦略的人権擁護運動の展開
(一)ここに、徐龍達教授は、かねてより定住外国人の地方参政権の要求について、「戦略的人権擁護運動」の展開として提唱してきている[32]。
徐教授は、一九七六年、つとに「在日韓国人の将来とその課題」という韓国大阪青年会議所の講演において、在日韓国人は「(同化と追放の)いずれでもない第三の新しいみちとして、国籍の変更なく地方自治体での『市民権』を獲得する方法を研究し、その実現のための運動を展開すべき」ものとし、その具体的課題として「地方自治体への参政権獲得」をあげてきた[33]。
このことは、「在日韓国人が、人間としての権利をこの地で確保するための基本として日本人に理解させると共に、同胞指導者層にも認識させる必要性を痛感するものです。また、国際社会に生きるべき日本としては、むしろ、外国人を多数永住させる方が国策上も好ましいということを、われわれの運動を通じて認識させる必要がありましょう」という[34]。徐教授は、すでにこの時期に、その後に起こるベトナム、カンボジア難民や外国人労働者をめぐるわが国の「国際化社会」の対応策を示唆していたのである。すなわち、より高い次元での発想の転換、つまり、多民族社会の形成、真の国際化への展望を示していたということができよう。
(二)近時、そのいうところはさらに具体的で明確である。主題に即してのみその特徴をみれば次のとおりである。すなわち、この地方参政権問題を在日韓国・朝鮮人のための「戦略的人権擁護運動」の中核として位置づけることによって、日本社会に定住外国人の存在を認めさせ、さらに地方自治体の参政権をえて、最終的には外国籍をもつ日本「国民」として生きる、それはまさしく人間として生きがいある社会の実現を求めるということである。
より具体的には、第一にその主体は、定住外国人たる韓朝鮮人が地域社会の構成員、住民としての権利を確保することにある。
第二に、その目的は、「一方で帰化=同化、ないし追放=強制送還を迫る日本の姿勢をにらみ、他方では国際人権の潮流を意識して、創造的な『共生』の主体としての韓朝鮮人のあり方を追求する延長線上で、参政権の主張を試みたもの」という[35]。また、「権利のともなわない義務は公平の原則に反する」、「国民」概念の再検討・拡大によって、定住外国人も「国民として確認させること、このような運動が、われわれの基本的人権を確保するための長期的な"戦略"的人権擁護運動になる」というのである[36]。
第三に、その内容は、前述のとおり地方参政権の獲得にある。いうところによれば、「ここで国政選挙と地方選挙を原則的に区分した理由は、これらの権利の営む機能が異なるし、国籍の果たす役割も異なるからであって、定住外国人の政治的発言は、その住民自治の一部をなす地方参政権に限って参加が認められるべき」ものとする[37]。
さらにこれが実現のために「定住外国人」概念の確立と「国民」概念の再検討を提起する。すでに、前者については判例においても採用されているところであり、後者についての検討が今後の課題とされる。定住外国人の参政権であっても、従来、伝統的「国民主権」原理のもとでの参政権の行使は国民固有のものとされ、それは国籍と不可分のものとされてきた。しかし、参政権の基準について近時の国際人権の流れに即してみれば、国籍基準から居住歴・住民性基準への転換もまた、指摘されてきており、徐教授のいう地方参政権における「国民」が「国籍をもつ住民」から、「国や団体を構成する住民」と解しうるならば規範論からみても理のあるところである[38]。また、「参政権は『国民主権』だとの通説は、いずれ過去の所説に終わることになろう」という指摘は十分に根拠のあるところである。
以上のとおり、地方参政権要求がこの国における定住外国人を量的にも質的にも代表する韓朝鮮人の権利擁護運動の戦略的中核として位置づけられるゆえんといえよう。しかし、今日この地方参政権要求の課題は、ひとり、定住外国人のための戦略的中核としてのみ位置づけられるべきものではなく、この国のマイノリティとしての外国人一般にとってもまた、彼らの諸権利の拡大の可能性とその限界をみきわめるための最も適切な指標ともなりうる戦略的課題であるということも、ここで確認しておかねばならない。
(三)最後に、地方参政権の法学的検討の課題が残る。支配的な伝統的憲法学説の立場からすれば、一般に参政権が国民固有の権利であることから出発する。それゆえ、選挙、国民投票、一定の公務就任、政党加入等の事例のように、国民の政治的(民主的)意志決定過程に直接参加する場合、外国人が除外されることについて、従来、判例上も学説上もほぼ異論はなかったものの、今日の状況は、これら観念的・抽象的原則論がしだいにその存在意義を失いつつあるといえる。
近時、EC諸国の状況をもふまえて、公選法や地方自治法を改正して、地方自治体における参政権を定住外国人等の一定の類型に属する外国人に対して認めることについて、憲法上認められるという有力な主張が展開されている[39]。すなわち、すでに検討もしたとおり、①日本国憲法は第一五条一項において「国民」、第三九条において「住民」と表現を使い分けている。②地方自治の概念は、自治体の高権行為が国家意志と区別される「住民」意志による地域的正当性(「下から」の正当性)によって支えられることを必要とするものである。しかし、外国人に参政権を認めても、地方自治体の高権行為は法律にもとづき法律の枠内で行われる以上(条例も「法律の範囲内」で制定される自主立法である)、正当性の淵源が「国民」に存するという国家正当性(「上から」の正当性)の契機が切断されてしまうわけではない。したがって、第九三条の「住民」に外国人を含める解釈は、「国民主権原理」との関係で矛盾が生じないことになる。③それどころか、「地方自治の本旨」にもとづく地方公共団体のあり方(同九二条)を考えると、外国人の自治体参政権はむしろ地方自治の理念に適合するということになる。
いずれにせよ、今後なお多くの検討課題を有しているわけであるが、さしあたり、主権・国民・国籍という三位一体的抽象論に対して、人権保障の拡大と国際化という要素をふまえて、検討することが必要であろう。
具体的には、第一に、主権概念の相対化を図りつつ、その主権の行使が絶対的に国民でなければならない具体的状況を明らかにすることであろう。
第二に、「国民」概念をそれぞれの人権カタログに対応して分析し、多元化することである。
第三に、国籍概念それ自体の機能的分析にもとづいて、重国籍のタブーをも破ることであろう。その他、参政権自体の具体的内容と機能、地方自治制度等についても検討しなければならないが、それら法学的検討は今後の課題としたい。
- [1]清宮四郎『外地法序説』日本評論社、一九四四年、三七頁以下参照。
- [2]法務研究所編『在日朝鮮人処遇の推移と現状』(リプリント)湖北社、一九七五年、二九頁。
- [3]外務省政治局特別資料課編『在日朝鮮人管理重要文書集』、(リプリント)湖北社、一九七八年、一六頁。(以下『重要文書集』と略記)
- [4]前掲『在日朝鮮人処遇の推移と現状』、七五頁。
- [5]前掲『重要文書集』、一六頁。
- [6]前掲『在日朝鮮人処遇の推移と現状』、七五頁。
- [7]E.W.ワグナー『日本における朝鮮少数民族』(リプリント)湖北社、一九七五年、五頁。
- [8]前掲『在日朝鮮人処遇の推移と現状』、七六頁以下参照。
- [9]前掲『重要文書集』、三三頁。
- [10]前掲『重要文書集』、三四頁。
- [11]前掲『在日朝鮮人処遇の推移と現状』、三〇頁参照。
- [12]朴慶植『戦後在日朝鮮運動史』三一書房、一九八九年、一三二頁。
- [13]朴・前掲書、一三二頁、朴慶植編『朝鮮問題資料叢書』補巻『解放後の在日朝鮮人運動(Ⅲ)』三一書房、一九八四年、八頁参照。(以下『資料叢書』と略記)
- [14]前掲『資料叢書』、第一五巻『日本共産党と朝鮮問題』、一九九一年、一〇九頁。
- [15]金石範『「在日」の思想』筑摩書房、一九八一年、一三頁。
- [16]前掲『資料叢書』、第一五巻、一一〇頁以下。
- [17]朴・前掲書、一五五頁、前掲『資料叢書』、補巻、八三頁。
- [18]朴・前掲書、一三五頁。
- [19]朴・前掲書、一三六頁。
- [20]朴・前掲書、一三六頁。
- [21]朴・前掲書、一二九頁、前掲『資料叢書』、補巻、一〇六頁。なお、朝連は、一九四八年一〇月の第五回全体大会における行動綱領の第一三番目に「選挙権被選挙権獲得」をうたっている(前掲『資料叢書』、第九巻『解放後の在日朝鮮人運動(Ⅰ)』、一九八三年、二四二頁参照)。
- [22]一九四九年三月一五日付『解放新聞』は、朝連香川東讃支部が「地方参政権」獲得の要求をしているとの記事を掲載している(前掲『資料叢書』、補巻、一八四頁)。あるいは、一九四九年一〇月一二日の東京都北区長との交渉の場で「選挙権があたえられるまで徴税は取りやめる」という発言を掲載している(同紙、一九四九年一〇月一五日、前掲『資料叢書』、補巻、二七一頁)。
- [23]朴・前掲書、一八〇頁参照、前掲『資料叢書』、補巻、一二一、一五九頁。まず、同紙四月一日付によれば、なおも選挙権闘争を続けるに当って、GHQの意向をもふまえているという認識を示していた。すなわち、「この問題について、二月二七日総司令部民生局長もその妥当性を認め朝連ではこの態度をそのまま推進する」というものであった。
次に、同紙社説一一月六日付「選挙権獲得闘争を展開せよ」によれば、この間の選挙権獲得運動が「消極的」であったり、一部では「形式的要求であったり、文書によるだけのものであったり」、あるいは「断続的かつ公式的傾向を克服できておらず」、他方によっては「最初から断念的で闘争を放棄する傾向」があったものの、「その場しのぎの闘争の欠陥を克服し、食糧獲得、職場獲得、あわせて選挙権獲得闘争を平素から着実に展開しなければならない」というものであった。
また、民団等の攻撃に対しては、「外国人という看板の下で実質的な奴隷的地位を甘受しようとする売族分子の虚説だということはいうまでもない」と反論した。 - [24]ワグナーもまた「かならずや朝鮮人個人が日本市民の身分を獲得するのを容易にするような規定を設けることになろう」、あるいは「事情が許せば朝鮮人は日本または朝鮮のいずれの市民権を選ぶかの明確な選択権を与えられるであろう」とみなしていた。ワグナー・前掲書、五頁。
- [25]金石範・前掲書、一四頁。
- [26]さしあたり、岡崎勝彦「在日韓国・朝鮮人の補償・人権法(案)の意義と課題」『青鶴』二号、一九八九年、三〇頁以下参照。
- [27]徐龍達編『定住外国人の地方参政権』日本評論社、一九九二年、二二一頁、民族差別と闘う連絡協議会(以下、民闘連)編『在日韓国・朝鮮人の補償・人権法』新幹社、一九八九年、一〇六頁以下参照。
- [28]ちなみに、民闘連編「在日韓国・朝鮮人の補償・人権法」草案においては、参政権は第四章の「人権保障の部」でなく、第三章「基本的地位の部」において、第八条特別永住権の設定、第九条居住権の設定、第一〇条参政権として構成されている。民闘連・前掲書、八〇頁以下参照。
- [29]民闘連・前掲書、一一三頁以下参照。
- [30]民闘連・前掲書、一一六頁。
- [31]民闘連・前掲書、一一五頁。
- [32]徐龍達「韓国・朝鮮人の現状と将来」徐編著『韓国・朝鮮人の現状と将来』社会評論社、一九八七年、二九頁。同「国際化時代における定住外国人の地方自治体参政権」『地方自治研究』(日本地方自治研究学会)、一九八九年二月、四巻一号二頁。前掲『定住外国人の地方参政権』、七頁。同「定住外国人の地方参政権」『都市問題』(東京市政調査会)、第八三巻第六号、一九九二年六月、三九頁以下。
- [33]徐龍達「在日韓国人はいかに生きるべきか」『韓国大阪青年会議所認准5周年記念誌』一九七六年(前掲『定住外国人の地方参政権』、三八頁より)。
- [34]前掲『定住外国人の地方参政権』、八頁。
- [35]同上書、七頁。
- [36]前掲『韓国・朝鮮人の現状と将来』、三〇頁。
- [37]前掲『定住外国人の地方参政権』、七頁以下参照。
- [38]さしあたり、同上書、二三頁、前掲『韓国・朝鮮人の現状と将来』、三〇頁以下参照。
- [39]長尾一紘「外国人の人権―選挙権を中心として」芦部信喜編『憲法の基本問題』有斐閣、一九八八年、一七七頁、前掲『定住外国人の地方参政権』、六四頁以下参照。このような立論について、芦部教授もまた「日本国憲法の解釈論として十分に成り立つ立場だと考えられる」とする。芦部「人権の享有主体(2)」『法学教室』一〇二号、一九八九年、三五頁参照。
